発病、事故、解雇…偶然の不幸な出来事から救われる手だてはあるのか?【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』著者・小さな教会の牧師の知恵 第16回
そのいっぽうで、わたしの信仰は彼らに比べて、もっとひねくれている。わたしは牧師になってからも、やむを得ない事情で教会を辞任して無職になったことが二度ほどある。とくに一度目は、強い不安のなかに置き去りにされた感があった。これをいっそ神の呪いであると思えたなら、たしかに楽にはなれなかったかもしれないが、少なくとも納得はできただろうとは思うのだ。戦国時代のキリシタンならそんなふうに捉えることもできただろう。
だが、呪術的世界観とは無縁の生活をし、キリスト教家庭で育ったわけでもないわたしにとって、偶然起こる出来事は、やっぱり偶然であるとしか感じられない。それは信仰云々以前の、肌感覚の問題である。もちろん後づけで「これは神の試練だった」と語ることはできるだろうし、じっさい、そういうふうに語ることもある。けれども苦しんでいる真っ最中に、体感としてそのように感じることはできない。
キリスト教徒であっても、特定の宗教を信じていない人と同じように、理不尽な出来事は理不尽であるとしか感じられないのだ。宗教を信じる信じない以前に、現代という時代、日本という場所で生まれ育っている以上、こればかりはどうしようもない(もちろん、日常の出来事すべてを神に結びつけて感じることのできるキリスト教徒もいる。ただ、わたしはそういう人と、あまり話が噛みあったためしがない)。
偶然を偶然、理不尽なことをただ理不尽としか感じられないときに、それを受け容れたり、諦めたりすることは、ひじょうに難しい。これは神仏の領域なのだと思えればこそ、むかしの人たちは、死に至るほどの苦しみにも耐えることができたのではないか。たまたま、なんの理由もなく、このわたしが苦しまなければならないということ。なぜ、よりにもよってわたしなのか、問うても無駄であることは分かっている。それでも問わずにはおれないわけである。
そういう意味で、わたしにとって教会とは、神からの祝福や呪いを直接に感じられる聖域というよりは、答えの出ないことを誰かと分かちあえる居場所である。今も教会には、やり場のない悲しみや怒りを抱えた人たちがやってくる。当たり前だが、そういう人たちに対してわたしは「あなたのそれは神の呪いです」とは言わないし、わたし自身そんなことはつゆほども思っていない。たとえばもし、そういうことを本気で言うような教会があれば、それはもはやカルトであろう。
その人の苦しみには正当性がある。ただしそれは、その人が苦しみを表現することの正当性である。なぜそんな苦しみを負わなければならなかったのか、その理由の正当性ではない。なぜその人がこれほどに苦しまなければならないのか、その理由は、本人に対しても周りの誰に対しても、隠されたままである。苦しみが生じたことについて言葉で説明できる理由が存在しないからこそ、その人は苦しいのであり、ただ「苦しい」と表現するしかないのである。